ダライ・ラマ法王

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ダライ・ラマ法王 世界と日本を語る

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(1992年10月)

現代の日本社会で、「国」を意識するのは稀なことです。空を飛ぶ鳥が空気を意識しないように、水中を泳ぐ魚が水を意識しないように、我々は普段、自分が日本人であり日本国民であることを、ほとんど意識しないで生活しています。

しかし世界には、自らの民族と国家を存続させるために、日夜血と汗と涙を流し、自らのアイディンティティーを主張し続けている人々がたくさんいます。チベット人たちも、また然りです。

自らの文化を持続させ続けてゆく彼らのエネルギー源は、何なのでしょうか。チベット民族の伝統と文化の象徴であり、600万チベット人の誇りでもあるダライ・ラマ法王とお目にかかる機会を幸運にも得て、その秘密に1歩でも近づくため、ささやかな質問のいくつかを、私は法王猊下へ問いかけてみました。

── 葉山 :
人間だけが、地球上の生物の中で唯一、周囲の環境を変化させる能力を有しています。それゆえ、地球上の北から南まで、至るところ人の住まない場所を探すのが困難なほど、人間はその居住圏を広げ、環境の変化をもたらしてきました。人は、生きるために、周囲の環境を変えます。環境を変えることで、より多くの人間の居住が可能となり、多くの人々が住めるようになることで、そこに数々の喜びと幸せが生まれてきます。
しかし、より多くの喜びと幸せを得ようとして環境を大きく変え、やがては誰も住めない環境を作りだしてしまい、多くの不幸と悲しみを生む結果となっています。どんな動物も自分の胃袋以上の獲物を求めることはしませんが、人間だけは自分が食べられる以上の物を求め、際限もなくその生活の領分を拡大させ続けています。この自らをも亡ぼす欲望の原点は、一体何なのでしょうか。

ダライ・ラマ法王:
仏教の立場から見れば、強い欲望と無知−この両者が原因です。つまり、三毒煩悩の中の貪欲と無明です。また、我々が、近視眼的な見方しかできないからでもあります。
── 葉山 :

猊下は「ダライ・ラマ自伝」の中で、御自身を「半マルキシスト的」と称せられています。
経済活動とは富の生産と分配であり、本来の意味での共産主義社会と資本主義社会とを比較したとき、理論的には共産主義社会の方が効率的な生産と分配ができるはずなのに、現実には資本主義社会の方が効率よく機能しているように思われます。このことは、人間の理性と倫理に基づく富の分配よりも、欲望に忠実な富の分配の方が社会全体としては効率がよいという事実を示していると考えられます。理性よりも、自らを破壊へ導きかねない欲望を信頼しなければならないという現代の社会を、猊下はいかがお考えでしょうか。

ダライ・ラマ法王:

これは、大変よい質問です。資本主義と共産主義について、非常に適切な説明がなされています。
以前ならば、環境問題については道徳的な側面が語られ、必要に迫られた問題とは認識させていませんでした。しかし現在では、極めて緊急性の高い問題となっているのは、周知の通りです。今では、私はいつも、普遍的責任感 the sense of universal responsibility の必要性という側面を強調しております。

昔だったら、環境問題について語るのは善いことでこそあれ、必要不可欠ではなかったのです。例えば、国家、都市、村落が各々自給自足的であったから、世界全体の幸福などといった事柄を気にかける必要もなかったわけです。しかし現在の経済情勢のもとでは、あらゆる国々が相互依存的になっています。例えば、貴国日本の経済は、中東の石油に頼っているというようなこともあるし、日本の技術によって生産された製品に対しては大きな市場が必要です。今日の経済情勢はかように相互依存的であるから、1国の現実的な幸福や苦しみは、他国の幸福や苦しみに深く関連しています。本当は、自らの幸福を得るためであっても、他国の幸福や苦しみとリンクさせて考えなければならないのです。

現在、環境問題が話題になっているけど、宗教家がそれを言い出したわけではありません。これは、科学者たちから提起された問題であり、現実に深刻な状況が生じているのです。世界の経済が発展して、平和と繁栄が達成されれば、それぞれの国も自然にその利益を享受して幸福になるというのが現在の状況であり、それほどに相互の関連性は高いのです。例えば、家族が共同で事業を開始するならば「この仕事は私のため、あの仕事は貴方のため…」というふうに分けて考えることはできず、利益も損失も共通のものでしょう。この点をよく認識するのは、大変重要なことだと思います。

── 葉山 :
日本は、半世紀前の戦争によってほとんど全てを失ったにもかかわらず、経済的には世界の中で最も発展した国の1つとなっております。これは、日本人が過去において多大な努力を払い、現在も努力を継続していることの成果です。しかしそれは、何も日本に限ったことではありません。どこの国でも、程度の差こそあれ、皆一生懸命働いています。日本の経済的発展の秘密は、「物質的豊かさが、全ての問題を解決する」という単一の価値観 − いわば信仰のようなもの − に殉じた結果なのだと思います。単一の社会規範しか持たない国が、複雑な社会規範を持つ国よりも生産効率の点で優れているのは、当然のことです。しかし国際化が進んだ現代に於て、日本人は、自らが切り捨ててきた多くの社会規範を無視し続けるわけにはゆかなくなってきたように思われます。確かに物質的豊かさは多くの問題を解決しますが、同時に多くの別の問題を新たに生み出します。「もっと豊かに…」と願えば、何物かを犠牲にし、新たな不幸と悲しみを人々は背負いこむことになります。

もし今日の日本の豊かさが、他国の人々の犠牲のうえに、新たな悲しみとともに成り立っているものだとすれば、その犠牲となっている人々に対して責任があり、その悲しみを分かちあう義務があるのではないでしょうか。その義務を果たすことが、我々日本人の誇りとなるのではないでしょうか。

ダライ・ラマ法王:

その通りだと思います。日本は経済的に大変裕福になっているけれど、「日本は、その経済的な豊かさに見合うほど、国連に対する拠出をしていない」と他国が指摘しているようなこともありましょう。もっとも、湾岸戦争の際に、米国がより一層の支援を要求するようなことがあったみたいですが、これは戦争目的のものであり、別な話です。ただ一般的にいえば、日本はいま少し援助を増やす余裕があるかと思うのです。

欲望を持っているのは、どこの国の人でも同じですが、日本人はより大きな努力を払ってきたのでしょう。インド人もチベット人も、同様に強い欲望を持っていますが、一般的にいえば、努力が少し足りないのだと思います。

── 葉山 :
猊下は米国での講演で「人間には権利があるか?」と自問され、「幸せを望み苦しみを望まないこと自体が、人間が人間としての権利を有している理由なのです」とお答えになっています。しかし、現在の世界における混乱の多くは、「自らの幸せになる権利」を人々がそれぞれ要求するところから発しているのではないでしょうか。自由主義の社会において、各自が自分の幸せを追求することは、誰も非難できません。しかしそのような社会で人がそれぞれの幸せだけを追い求めるなら、1つ1つの目的は正しくとも結果として全体が間違った方向を辿り、やがては皆に不幸な結果が訪れてしまします。人の行動判断の基準が、自分の幸福に望む心であるとするならば、それがたとえいかに普遍性を持たない自分勝手な基準であろうとも、それに従い、残酷に、冷酷に、利己的に振るまい、つまるところ自分にとって都合のよい行動をとるという点は、国家においても個人においても変わりがありません。しかし一方で、悲しいまでに切なく美しく、気高い行動をとるのも人間であることを、我々はよく知っております。

幸せになろうとする1人1人の無秩序な行動は、弱肉強食の争いの原因となり、弱い者が淘汰される不幸、そして社会全体における不幸の再生産システムを生み出してしまうのではないでしょうか。弱肉強者の理論は、やがて「自分の不幸は他人の不幸、他人の幸福は自分の不幸」という滅亡の方程式へ、導かれてゆくと思います。現在「中国人の幸福はチベット人の不幸」となっていますが、この事実と、その裏返しとして「チベット人の幸福が中国人の不幸」となってしまうことのないようにするため、猊下はどのようなお考えをお持ちでしょうか。

ダライ・ラマ法王:
「人間の権利とは何か?」自分自身を大切にするのは大事なことだと、私は信じています。自分自身を大切にするのは、当然なのです。自分自身を大切にすることは経験上よく実践しているわけですから、その通りに他人も彼自身のことを大切にしていると知るのは、重要なことなのです。だから、自分のために他人を犠牲にするのは、善いことでありません。私も幸せになりたいし、他人も幸せになりたいのです。よくよく考えれば、他人が幸せでなければ、自分も幸せにならないという思いが生じてくるはずです。他人が食べ物もなくて困っているとき、自分が美味な食事をしていても、人間の理想という立場からするなら、本当にそれで自分が幸せになれるのかといえば、それは難しいと思うのです。人間は、社会的な動物で、相互に依存しているのです。人間は、自然に本質的な徳を持っているものだと思います。本質的な善い考えを持っているのです。例えば幼い子供でも、互いに友情を抱いたりするのは、人間の徳の1つの現れだと思います。そして友人が居れば幸せだし、居なければ寂しいのも自然です。しかし我々は時として、他人の瞞して友となるようなこともあります。これは、理想的なことではありません。我々は、お互いに笑っているときが、1番でしょう。自分が暗い顔をしていて、相手に微笑みかけて欲しいと期待することが、どうしてできましょうか?自分の方から微笑みかければ、相手もそうしてくれる…かもしれません。でも自分から微笑んで、相手がそれに応えてくれなくても、それは仕方がないとして、何も後悔する必要はないでしょう。そして人間の本質として、友人が多ければ楽しいし、居なければ寂しいということもあるので、自分から友人を作るべきです。そのためには、他人を助けることも大事なのです。それは結局、自分の利益にもなるのです。
── 葉山 :
現在、世界の人口は50億人を超え、21世紀に入ると100億人に達するといわれています。現在でさえ数多くの不幸が生じているのに、これ以上の人口増加は、多くの耐え難い不幸を生み出すことでしょう。このような考えは、現在生きている我々のエゴイズムからだけとは、言いきれないように思えますが…。

ダライ・ラマ法王:

1つの原因は、人口が過剰なことです。多くの人々が、人口を少なくべきだという考えを表明しています。家族計画は、大切であり、善い考え方です。

けれど仏教の立場から見れば、1個の人間の人生は大切な功徳を持っており、それは宝の如くであると説かれていますから、その面からすれば家族計画はいけないことかもしれません。そのように貴重な人生の機会を制限するのは、善くないといういう考えです。

しかし他方では、過剰な人口がより大きな問題を起こしている以上、産児制限の運動も致し方ないことであり、また大切なことだと思います。とにかく、人口を減らすのに非暴力的な手段を用い、誰も傷つけないようにすることが肝要です。

質問全体を見てまとめれば、人間というものは幸福を必要とするのは当然だし、その幸福にも物質的な発展によって得られるものと、精神的な発展によって得られるものとの2種類があります。しかしその中では、精神的な幸せの方が、より堅固なものであり重要であろうかと思います。精神的考えをもっと確固たるものとするためには、宗教の役割が大切なのです。そして未来のために、物質的な発展と内なる精神的な思想とを関連させて進むのが、非常に重要なことです。

私は最初に訪日したとき、多くの友人に語ったこともあるし、自分も感じたこととして、日本は物質的に大層発展したし、また現にしつつあるけれど、そのうちある段階で、このような発展に起因して精神的な問題も生じてくると思います。日本には、昔から豊かな文化もあるし、仏教の教えもありますから、それらを伝統や習慣としてやるだけではなく、よく考えてこれらの文化と思想を生活の中に活かし、物質と精神の双方を発展させることが重要だし、日本ならそれも可能だと思います。

チベット人は、亡命生活も33年の永きに渡っています。我々の考えでは、物質的発展も必要だから近代的教育に力を入れておりますが、精神的な発展のためにはそれだけでは足りないので、仏教の教育にも力を入れているのです。

そのうえで我々はまた、民族の自由のために闘っています。我が国と中国とは別個の国であるという理由は、文化、宗教、習慣が全く異なっているという点であり、そのことについて議論を深めています。この点を明示するためにも、我々は文化を大切にしているのです。

両国が別個であることを証明する最大の証拠は文化の相異でありますから、文化を守るために力を入れているのです。例えば、中国語を読める人なら、日本語を少し読むことも出来るかもしれません。しかしチベット語は、中国語が読めたからといって、読めるものではありません。かようなわけで、チベットの文化を大切に守ってゆくことに、努力を傾注しております。

さらにまた、チベット人の中で西洋の教育をよく受けた人でも、自らの文化を知らないと後で困ることもあるのです。インド人でも、西洋社会に住み、現地の教育を受け、考え方が西洋的である人々も多いのですが、彼らの立場は中途半端で、いずれにも属さないことから、精神的に大いに悩む場合があるといいます。

日本の事務所は亡命政権の代表部として、或はダライ・ラマの代表機関として、その主な目的とするところはチベットの文化を守ることです。と同時に、近代教育を通じて物質的に発展することとのバランスをとるのは、我々の哲学であり考え方でもあります。だから、代表部事務所は、この考え方を鮮明に掲げてゆけるようにしなければなりません。条件が揃ったら、我々チベット人が大切にしている「精神と物質の発展のバランスをとる」という考え方を、日本の友人たちへお伝えしてゆくことも、その目的の1つとなりましょう。そのことは、可能であると思います。

(ダライ・ラマ法王と葉山氏との会見は、1992年10月ダラムサラの法王宮殿内にて行なわれました。)